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これまでの研究の集大成

統合失調症は「治療」してはいけない

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第一部 副作用の記録


 1. プロフィール  〜発症まで(登場人物は仮名です)
 
 
私は1960年生まれの47歳。田舎で兼業農家の長男として生まれた。十歳の時に父親が病気で死に、母親は勤めに出ながら農作業をして私と妹を育てた。高校卒業後は家の跡継ぎになることを強制され、地元の自動車関連企業に就職したが母親と対立することが多くなった。
 パートナーの寿子さんは59年生まれで一つ年上、学年では二つ上になる。短大卒業後町で広告関係の仕事をしていた。
 登山サークルで知り合い結婚したが、寿子さんが私の母親と折り合いが悪く家を出ることになる。保守的で全く価値観の違う母親とは私でさえうまくやれないのだから無理もない。二人で一緒にできる仕事をしたいとサラリーマンを辞め、近くの観光地で輸入雑貨販売と喫茶を兼ねた店を始めた。始めた頃は商売になるのか不安だったが、次第に軌道に乗り従業員数人を抱えるようになった。
 二人で仕事をするのは楽しかった。自分と母親の関係が影を落としていたせいか子どもが欲しいとは思わなかったが、七年が過ぎる頃二人とも何か物足りなさを感じるようになっていた。このままでいいんだろうか?という漠然とした疑問の中で妊娠がわかった。そういう時が来たのだと二人とも納得していた。
 92年に長女美香が生まれた。その愛おしさに見ているだけで涙が出たのを覚えている。この感情を知らないのは人として半人前なのだとつくづく感じた。美香は何の問題も無く成長し、一度も勉強しなさいと言ったことも無いのに成績も良く、明るくお手伝いもよくしてくれる高校生一年生だ。
 96年に長男祐樹が生まれた。
 出産が近くなって前置胎盤で出血の危険があると言われ、医大に入院し帝王切開することなった。男の子が生まれることはうれしく思っていた。父親と息子という関係が作れることは、父親を早くに亡くした私にとって特別の思いがあった。いい関係を築いて行きたいと思っていた。多くの父親が思うようにたくさんの夢を持っていた。

・0〜6歳まで
 仕事が忙しく一歳から託児所に預けた。私はもう少ししてからと思っていたのだが、寿子さんが仕事と子育ての両立が難しいらしく、私もそうそう仕事もあけられないので仕方なかった。
 家事や子育てに関しては私もかなりの部分を担っていた。寿子さんはどうもそういう分野が苦手らしかった。私は料理も好きだし、子育ても楽しんでやっていたからそれ自体は何も問題はなかった。
 体の発達は問題無いようだが言葉などは同年齢と比べて遅い感じがした。とはいっても個人差、平均の範囲内だとは思っていたので大して気にも留めなかった。
 どうもみんなと同じことをするのが苦手な様子ではあった。落ち着きが無く、わがままでだだをこねることが多い気もした。運動会のお遊戯ではみんなが踊っているときに一人で砂をいじっていたりすることがあった。一方で性格は明るく好奇心旺盛で、人見知りがなく誰にでも話しかけるような所があった。コンビニに行って掃除している店員さんに「何してるの?」と声をかけて店員さんが困ってしまうようなことも度々だった。
 成長は遅めだったが早生まれでもあり、男の子は成長が遅いという話も聞いたことがあったのでそれほど心配もしていなかったし、笑って見ていることができていたように思う。
 3歳からは近くの公立の保育所に通うことにした。知っている子がいないので不安だったが、人見知りすることもなくみんなとすぐに友達になれたようだ。
 他の子に比べればやはり落ち着きが無く、集団行動は難しいようだったが、「まだ小さいから」で許される範囲内だったと思う。概ね良い先生に恵まれて三年間楽しく過ごした。この頃から「個性的」「将来大物になる」という言葉をかけられることが多くなった。わがままが強く言うことは聞かなかったが、それ程強く怒った記憶は無い。

・小学校低学年
  6歳で小学校に入学する。多くの友達が保育所と一緒なので大きな心配はしていなかった。
 入学当初、通学に長い距離を歩くのが苦痛なようで、道路に寝転がってしまうことが毎日のようにあった。登校班のみんなに迷惑をかけるということが申し訳なくて強く怒るようになった。ある時は山の中に連れて行って「言うことを聞けないのなら山に捨てるぞ」と怒ったこともあった。結局一年生の間私が一緒に歩いて登校した。
 一年の時の運動会は皆と同じ行動ができないことも多く、参加しなかったり、途中でリタイアしてしまう種目も多かった。担任の若い女性教師の困り顔が忘れられない。私と寿子さんはひたすら頭を下げてまわった。それから寿子さんは他の父兄や教師と顔を合わせるのを嫌がり学校行事に行けなくなった。
 集団行動が出来ない、落ち着きがない、わがままで奔放、すねたりだだをこねたりする。第三者に迷惑をかけることが個性という範囲を超えて問題を大きくし、教師から注意されたり叱られたりすることが多くなった。比例して私も強く叱ることが多くなった。時には尻を叩くようなこともあった。
 勉強は苦手で成績も良くなかったが、学校でも家庭でも性格は明るく、好奇心は旺盛である意味では人気者だった。
 二年生からスイミングスクールと絵画教室に通い始める。絵画教室は、勉強やスポーツは苦手なようなので、得意そうな分野を伸ばしてあげたいと考えてのこと。どちらも楽しいようで嫌がらずに通っていた。
 仕事が土日忙しいのでかなりの頻度で私の母に預けた。私は家を出た身なので気が進まなかったが、必要以上に手がかかることで、仕事にならない寿子さんが根をあげて仕方なく了承した。そのかわり平日学校を休ませて家族でよく遊びに出かけていた。

・小学校中学年
 三年生くらいになると問題行動はやや落ち着きを見せるものの、教師に恵まれず相変わらず問題児扱いされ、同級生の中でも浮いた存在になり始めた。精神年齢がやや低いことが災いし、自分からは近寄っていくが相手にしてもらえないようで、いつも仲間はずれにされていたらしい。一方でやさしい一面もあり下級生の面倒見が良く、女の子とは仲がよかった。
 軽度発達障害ADHD(注意欠陥多動障害)を疑うものの、病院に行くほどの必要性は感じられなかった。
 同じく発達障害と思われる転校生がやってきて仲良くなる。やっと対等に付き合える友達が出来たようだが、そのことがかえって孤立を深めることに繋がっていったようにも思う。
 相変わらず言うことは聞けずわがままで、強く怒ることは日常行事だった。爪噛みが始まったのはこの時期のように思う、爪を切ろうとすると親指や人差し指は切る必要が無かった。大切なSOSのサインを私は見逃していたのかもしれない。怒ると怖いお父さんだったのかもしれないが、普通の父親に比べればはるかに愛情を持って子育てにかかわってきたつもりだ。遊ぶときは一緒になって一生懸命遊んできた。明るくひょうきんで、おしゃべりで出たがりな性格。授業中は答えられないのに誰よりも早く手を挙げたり、学習発表会の劇などでは主役に立候補したりする所もあった。そんな性格が、壊れやすいガラスのような心の持ち主であることを隠していたのかもしれない。
 多くの家庭が抱えるような多少の問題はもちろんあって、仕事は忙しくお金はいつも無かったが、家族四人仲良く幸せに暮らしていたつもりだった。

・小学校高学年
 祐樹君が五年生になった頃から複数の要因が重なって仕事が急に忙しくなった。私は毎日夜中まで仕事に追われるようになり、精神的にも余裕がなくなっていたのかもしれない。
 家事が寿子さんの負担となり、私の余裕のなさと私がいない寂しさ、増えた従業員との人間関係がストレスとなって追い詰められ、うつ病を発症した。「死にたい死にたい」と訴えて仕事も家事も放棄し、ふさぎ込んだり、突然車でどこかへ行ってしまったりするようになった。もともと精神的に弱い所があり、対人恐怖症のような前兆も大分前から見られていたように思う。最初は頑固に拒否していたが病院に行き、薬をもらい次第に落ち着きを取り戻すようになった。
 原因を少しでも減らそうと、私は従業員を増員して一切の残業を止め、ほとんど無休で働いていたのを週に一日休みを入れるようにした。うつ病の症状と薬の副作用で以前のように仕事が出来るようにはならなかったが、ある程度安定した状態が維持できるようになった。
 祐樹君は中学校に向けての勉強や訓練になかなかついて行けないようで、学力もクラス最低。仲の良い同級生が転校し、クラスみんなから一人疎まれるようになり疎外感を強めていったようだ。子どもは残酷なもの、それほどの悪意があるわけではないのだろうが、結果的にはいじめというレベルに達していたのだと思う。新しい担任は厳しいことで有名で、ある意味では期待したのだが結果的には厄介者としての扱いしか受けなかった。みんなの前で注意を受けることも多くなって、それがいじめを助長して行ったようにも思う。
 私は相変わらず強く叱ることが多かった。言うことを聞けず、約束を守れず、相手の気持ちを思いやれず、人を怒らすような行動ばかりする。発達障害なのだから仕方ない、悪意があるわけではないとは思いながらも、これでは中学校に行ってもついていけない、という焦りが叱るという行動になってしまったようにも思う。忙しい余裕のなさも追い打ちをかけていたことも否定できないように思う。ある時はゲームの時間の約束を何回言っても守らないので、ゲーム機とソフトをみんな壊して捨て、カードゲームのカードをみんな捨てるようなこともした。
 勉強は嫌いで嫌がった。宿題もやりたくなくて隠したりすることも多かった。嫌いなのはわかっていたから勉強ができないことを怒ったことは一度もないが、やらなければならない宿題をやらない時には怒った。頭が悪いわけではないという確信があったから、やる気になればみんなに追いつけるとも思っていた。
 そんな一つひとつの出来事があの忌まわしい出来事に繋がって行くとは思わなかった。躾の範囲を超えているとは思わなかった。怖いお父さんなんてそこら中にいるし、お父さんは怖いくらいでもいいとも思っていた。いつかその意味をわかってくれる日が来ると信じていた。
 けれども祐樹君は追い詰められていた。私の気づかない所で追い詰められていた。成長し始めた心が「どうしようもない悲しみ」を感じるようになり六年も終わり頃になると時折母親に「死にたい」と漏らすようになっていたらしい。
 もちろん朝から晩まで困った子であったわけではない。親ばかとは思うが絵画教室での作品は素晴らしいものがあったし、日常的には明るく好奇心旺盛でやさしい心も持ち合わせていて、毎晩私に本を読んでもらいながら眠るのを楽しみにしていたいい子でもあった

注釈 発達障害
自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するもの。このうち学習障害、注意欠陥多動性障害などは軽度発達障害と分類される。
注釈 ADHD(注意欠陥多動性障害)
集中力が続かない、気が散りやすい、忘れっぽいなど不注意によるもの、じっとしていることが苦手で落ち着きがない多動性、思いついた行動について、行ってもよいか考える前に実行してしまう衝動性など年齢や発達に不釣合いな症状が見られるもの。(文部科学省資料を参考に文章化)

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